鴉が鳴いていますねえ、と水島は優しく言った。こういう時の水島の口調は、縁日で売られている綿菓子のように甘く、柔らかくて、私は酔いそうになってしまう。カア、カア、と叫ぶような鳴き声が窓の向こうから聞こえてくる。水島は緩慢な動作で立ち上がり、つるりと窓を一撫ですると、私に向き直った。


「遠子さん。お散歩に行きましょうか」


水島の目は真っ暗闇の色だ。瞳孔が開いているのか、閉じているのか、それすらも分からない。そもそも、見えているのかいないのか、水島には謎が多すぎるのだ。
その水島の目で見つめられる時、私は胸に氷を落とされたような気分になる。最初はヒヤリと、とても冷たいのに、段々じんわりと熱を持ち始めるのだ。これが人を恋い慕うということなのか…私にはさっぱり分からないが、混乱するのだけは確かだった。


「悪くないですね」


水島は私の返事に、ふ、と笑い、当たり前のようにこちらに手を差し伸べた。私は数秒の間を置いてから、その手を取る。水島に触れるのは、とても緊張するのだ。
水島の手は、青白くとても冷たそうに見えるのに、触れるとしっかりと温かく、それがまた私を安心させるのだった。


「ああ、ほら、遠子さん。早く行きましょう。日が沈んでしまいますよ」


はいはい、と言いながら私はサンダルを履く。水島の、時々子供のようになるところが好きだ。分からない分からないといいながら、結局私は水島のことを愛しているようだった。


「ねえ、遠子さん」
「なんですか」
「僕は月に行ってみたいです」


私は驚き、思わず立ち止まってまじまじと水島の顔を見てしまった。水島の暗い湖底のような瞳からはなんの感情も読み取れず、本気なのか冗談なのか、判断がつかない。


「水島、私は、水島が居ないと困ります」


戯れ言かもしれないのに、何故か私は焦ってしまって、必死に捲し立てた。最初、水島はきょとんと私の顔を見ていたが、次第に表情を緩め、最後には吹き出した。


「なにがおかしいのですか」
「だって、遠子さんは勘違いをしてる」


勘違い? 私が首を傾げると、水島はあの、綿菓子の声で言った。


「あなたも僕と一緒に、月へ行くのですよ。遠子さん」


私は、私は、その瞬間、もう何が何だかよく分からなくなってしまって、とても混乱してしまって、けれど頭の隅っこでは、ああそれじゃあ水島と離れなくてすむな、などと冷静に考えている自分もいて……思わず子供のように、泣きじゃくってしまった。


「あらら、遠子さん。どうして泣くのです。僕と一緒に月に行くのが嫌ですか?」
「ちが、ちがいます、」
「宇宙に行く途中で、酸素不足になって死ぬのが怖いですか?けれど、もう大国では月面着陸を果たしていますよ。きっと、死ぬことはありません。月はきっと楽しいですよ。でこぼことしていて、一日中そこで遊んでも飽きないでしょう」


うん、うん、と私は頷いた。水島と一緒なら、きっと死なない。きっと月に行ける。なんだか根拠もないのに、不思議とそんな気がしてくるので、笑ってしまった。水島は、すごい。おや、泣き顔が笑い顔に変わりましたね、とからかう声がやけに大きく聞こえた。


「ああ、遠子さん。見て下さい。お空がとってもきれいですよ」


言われて顔を上げてみると、本当に、本当に空が美しくて、ああ、でも、本当に美しいのはあなたのほうだと、私は水島に言いたかった。結局またぼろぼろと涙がこぼれてきてしまって、口を噤んでしまったのだけれど。そして私は、やっぱり水島の目は見えるのだ、と見当違いなことを考える。


「きっと宇宙から見たら、もっとお空はきれいですよ」


私は美しい夕暮れの空と、水島の組み合わせに、いつまでも泣き続けたのだった。



月面着陸計画


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