ゴポゴポと鍋が煮立ち始めたので、鍋が、と声をかけたが返事はなかった。顔をのぞき込むとなんと岡崎が泣いていたので、びっくりしつつ火を止めた。何故、彼女は泣いているのだろう。さっぱり分からない。 僕は灰汁がスープの表面に浮かんでくるのを見つめながら、泣いている彼女のそばに突っ立っていた。 「なるほど、それで、君は彼女に何も言えなかったわけか」 ぴしゃりと言われ、僕はもぐもぐと口の中で意味不明なことを呟いた。が、昨日の自分があまりに情けなかったことは自分でも承知しているので、はっきりとした言葉にはできなかった。僕は岡崎の泣き顔を思い出して、うつむく。とても辛い。 藤森教授はやたらとうちの大学で人気のある先生だ。授業が面白いのと、先生自身とても魅力的だから。もう五十はとっくに過ぎているはずだったが、今年のバレンタインデーには他の男子生徒以上にチョコレートを受け取っていた。昔風に言うならば、ロマンスグレーといったところだろうか。 教授は、きれいに整えられた口ひげをざらりと撫でてから、僕の目をじっと見た。自分の心の内の、奥にしまいすぎて自分でも気付いていないようなことさえ、全て見抜かれているような気がする。とても恐ろしい、けれど、ひどく優しい目のまま、教授は語りかけた。 「ねえ、石田くん。君は岡崎くんに対して、自分がどう思っているのかということを、一度じっくり考えてみた方がいいよ。そうでないと、この話は解決しない。君たちは、同棲しているのに、していることはまるで小学生のままごとのようじゃないか」 「同棲じゃないです。ルームシェアです。この問題が解決しないと、どうなりますか」 「君たちの周り…例えば僕も、とても鬱々とした気持ちになるよ。もどかしくて」 教授の声は、静かな雨のように、ぽつりぽつりと心に沁みていくような気がする。ようく考えなさい、と締めくくって、藤森教授はコーヒーを口に含んだ。はい、そうします。と僕は答えた。彼の言うとおりだと思ったからだ。 僕は僕と岡崎京子の関係を、一度見つめ直す必要がある。 「どうもありがとうございました」と会釈してから部屋を出る。その時、教授がなにか溜息と共にぽつりと言ったような気がしたが、よく聞き取れなかった。ばたん、と扉が閉まる。 「本当に…君は頭が良いのか、悪いのか、さっぱり分からないよ」 中庭に出ると岡崎と出くわしたので、僕はお昼を一緒にどうか、と誘ってみた。彼女は笑って頷いた。この間のことなど、まるできれいさっぱり頭から忘れているかのような態度だった。一体思い詰めていた僕はなんだったのか、というぐらい清々しい表情で、なんだか拍子抜けしたような、安心したような、複雑な気持ちだった。 「君はハムエッグサンドが好きだったよね」 それを食べに行こうか、と何の気なしにした発言だったが、それを聞くと岡崎はこれでもかというぐらい元から大きい目を見開いた。驚愕というか、困惑しているような顔だった。おかざき?僕が目の前で手を振ると、何でもない、とそれはそれはきれいに笑う。異次元からきたかのような美しい顔だ。ああ、いや、それは、ひょっとして、岡崎が元々美しいこともあるけれど、そうじゃなくて、僕が彼女をきれいだと思うのは、彼女のことを、? 気付くと雨がしとしとと降り始めていた。しとしとと、という言葉は、なんと静かな雨にマッチするのだろう。僕は昔の人に感心する。自分の乏しい感受性では、そんな絶妙にしっくりくる形容は、きっと思いつけないだろうから。 そろそろ帰ろうか、と傍らで本を読んでいた岡崎に声をかけようとして、彼女がぐっすりと寝入っていることに気が付いた。僕はそれをいい機会に、じっくりと観察させてもらうことにした。 (ほんとうに、見れば見るほど、きれいな顔をしている、) この前は、なんだかそうやってきれいに見える理由のその先を、掴めたような掴めなかったような…そんな曖昧で整理のつかないまま終わってしまった。岡崎も、やっぱりハムエッグサンドを頼み、それを平らげて美味しい、と、本当に、何事もなかったかのように笑った。いつものように、美しく。けれど、その美しさの中にちらりと、例えば淋しさというか悲しさというか、そんなものを見たような気がして、僕の心はざわざわと落ち着かなかった。 岡崎の顔をまじまじと見る。閉じられた二重まぶたにきれいに生え揃った睫毛は長く、緩やかなカーブを描いて白い頬の上に小さく影を落としている。ああ、なんて、なんて美しいのだろう。 そこで、ふと、そういえばこの大きくて美しい目が、涙をこぼしたのだった、ということを思いだし、僕はもやもやとした気持ちにとらわれた。たしかに泣いている彼女も大層美しかったが、けれどあまり、見たい顔ではなかった。彼女はどんな時も美しいが、やはり、笑った顔が一番きれいだと、僕は思う。岡崎の美しい寝顔を見ている内に、僕は知らぬ間に彼女に触れようとしていることに気が付いて、慌てて手を引っ込めた。相変わらず、平和な寝息を立てる彼女は起きる気配を見せない。それに安心しつつ、僕は彼女を抱きしめたくて仕方がなくなっている自分に気付き、動揺した。岡崎は、このことを告げられたら、一体どんな反応を示すだろうか。 それが拒絶でなければいい、と思っている自分がいて、もう、混乱して、雨が止んでいるのか部屋が暗いのかどこにいるのか、それすらも分からなくなってくる。 僕が岡崎に持っている感情は、思ったよりも複雑で厄介なもののようだ。 僕は仕上げなくてはいけないレポートがあったので、ここ三日間研究室に缶詰状態になっていた。誰とも会わなかった。三日目には、完成しそうで完成しない文面を画面の外側から睨み付けながら、岡崎の声がききたい、と切に願った。不思議と、岡崎の「まあほどほどにやってください」という声を聞くと、本当に根を詰めず、ほどほどにやれた。岡崎に会いたい。 「調子はどうかな」 気付くとすぐ横まで藤森教授がきていて、僕は危うく椅子から転がり落ちそうになってしまった。いつだってこの人は猫のようにするりするりと近付いてきたり離れたりするのだ。 僕は眼鏡を直しながら、あと少しです、と答える。実際、頑張ればその日の内には終わりそうだった。 「岡崎くんとのことは」 今度こそ僕は椅子からずり落ちる。いくらなんでも、唐突すぎるだろう。 「…いま、岡崎のことを考えていたところです」 「ほう、どんな」 「彼女に、会いたいなって」 そう言うと、教授は眼鏡の奥の切れ長の目を大袈裟に見開き、爆笑した。教授が人目を憚らずに笑うことは、滅多にない。そんなにおかしいことを言っただろうか、と思っていると、藤森教授は笑いすぎて出てきた涙を拭いながら口を開いた。 「つまり答えは出ているということか」 「どういうことですか」 「分かっているんだろう。石田くん。本当は」 「なにが、」 「岡崎くんのことを、すきだということ」 僕は椅子から落ちた状態のまま、絶句した。たしかに、まさに、教授の言葉は僕の岡崎への気持ちにぴったりで、そんなことにも気付かなかっただなんて、ああ、そういうことだったのか、! ある日、僕は岡崎京子に対して自分がどう思っているのか研究した結果について、本人に伝えた。 「岡崎、僕はどうやら、君のことが好きらしい」 その時の岡崎の様子ときたら、録画して何度も見直したくなるような驚きっぷりであった。 まず食パンに塗ろうとジャムを持っていた手からは、するりといとも簡単に瓶が落下し、その衝撃でバターナイフが跳ね上がり、岡崎のお気に入りのワンピースを汚した。けれど京子はそんなことなどまるで眼中にないとでもいうかのように、ただただいつかの日のように目を丸くさせ、そして、最後にはぼろぼろと泣き出したのだ。 「岡崎、泣かないでほしい。僕は君の笑った顔が見たいよ」 「ありがとう、石田」 岡崎は僕をまっすぐに見て、泣きながら笑った。なんて器用なことができるのだろうと、僕は感心した。 「その言葉が聞きたかった」 岡崎がそう言って顔を赤らめるのを見て、たまらず腕を伸ばして抱きしめる。ああ、なんて愛おしい生き物! 僕は、岡崎のことをこれからは京子と呼ぶようにしよう、と密かに決意した。 |