キリオが記憶喪失になった。階段を、踏み外したのだそうだ。そういうところが、普段冷静なくせにどこか抜けている彼らしい。けれど、笑っていたのも最初の内だけで、私に「どなたでしょうか」と言ったキリオを見た瞬間、目の前が真っ暗になってしまった。それが、二週間前のこと。

とりあえず、キリオは退院して私の家にいる。元々、同棲していたので彼の部屋をそのまま使わせているのだが、部屋に入ったとき「明るくていい部屋ですね」と言ったのには傷付いた。というよりは、切なくなったというか、苦しくなったというか。
以前にもキリオは、最初にその部屋に入った時に、そう言ったのだ。もう付き合いはじめている時だったので、今よりもっと砕けた調子ではあったが。

普段キリオは、部屋に閉じこもって音楽を聴いたり、本を読んだりしている。それがまた、記憶をなくす前に好んでいたものばかりなので、私はほんとうに、やるせなくなるのだ。
たまに、私がおつかいを頼んだりすることがあるけれど(買い物の仕方だとか、そういう日常的なことはちゃんと覚えていたらしい)、それ以外には滅多に外に出たがらない。たまには新鮮な空気を吸った方がいいよ、と提案してみるのだが、キリオはその度に首を振る。あまりにも困ったように「ごめんなさい。今は……」と笑うので、それ以上は私も言えなくなってしまうのだ。
きっと、きっと、勝手に想像したもしもだけれど、キリオは私に「どなたですか」と言った時のことを、とても後悔しているのだと思う。記憶はないけれど、優しい人だから。記憶がある時と変わらず、優しい人のままだから。彼は、ショックを受けた私の顔を見て、猛烈に反省したに違いない。それで、外部との接触を拒むのだ。また、誰かに同じ顔をさせたら、申し訳ないから。推測の域を出ないけれど、けれどきっとそういうことなのだろう、と思う。


キリオが熱を出したので、とりあえずおかゆを作ることにした。記憶喪失の人間も風邪をひくのだな、と当たり前のことに感心してしまって恥ずかしかった。キリオに、「おかゆは卵のやつでいい?」と訊くと「あ、いや、梅干しでお願いします」という答えが返ってきて、やっぱりな、と思った。梅干しがいいって、言うと思った。キリオは梅干しのおかゆが好きだったから。分かっているのにわざわざ訊いて、記憶をなくす前のキリオと変わらないところを探して、ああ、何だか、私は自分の首を自分で絞めているようではないか?
ぽたり、と何かがおかゆを載せたトレイに落ちて、よく見たらそれは涙だった。認識した途端、ぼたりぼたりとやけに派手な音を立てて、涙が流れ落ち始めて、嗚咽が漏れそうになるのを歯を食いしばってこらえた。声を出したら、キリオが気付く。キリオは、私が泣いてる理由にも気付くだろう。それだけは、嫌だった。

(          キリオ、 )

キリオキリオキリオキリオキリオキリオキリオ、私の愛していたキリオ。いや、私は今だってキリオを愛してる。キリオは、私のことを愛してなどいないのに。私は、早く彼に私のことを思い出してほしい。はじめて会った時のこと、ケンカをした時のこと、二人で深夜こっそりと家を抜け出してデートしたこと、好きだと言ってくれた時のこと、私の留学を後押ししてくれたこと、それから、それから、それから……。

私は、キリオが私のことを「香魚子さん」と呼ぶのがたえられない。敬語で話しかけてくることがたえられない。好きだと言ってくれないことがたえられない。もう、何もかも、たえられないのだ。
けれど私は、彼のことをとても愛しているので、「ひょっとしたら、ふとしたきっかけで思い出してくれるかもしれない」などという、くだらない希望に、藁をも掴む気持ちで縋りついてしまうのだ。ははは、馬鹿らしくって笑えるわ。

(嘘、キリオキリオキリオキリオただあなただけが大切で愛しくてあああなたが私を思い出してそれでそれで「香魚子」といつものように優しくて柔らかいあの美しい声で呼んでくれて笑ってくれたら私は幸せになれるのに、)

なのに、キリオは私のことを、私と過ごした日々のことを、欠片も思い出してはくれない。


「香魚子さん?」

はっと振り向くと、いつの間にかキリオがこちらを見つめていた。同棲を始めた時から使っているパジャマを着て、とても不安そうで、戸惑っているようで、けれど静かな目をしたキリオ。私は、この人を愛しているのに、

「『香魚子さん』って言わないで!」

言ってしまってから、しまった、と後悔した。キリオが、それはもう分かりやすく、傷付いたような表情になって、そして、目尻をきゅっとさせて、いかにも作り物の笑い顔を浮かべて「ごめんなさい」と言うので、もう、私はどうしたらいいのか、分からないのだ。

「キリオ」
「はい」

キリオはひどい私の言葉にも、ちゃんと返事をしてくれる。そんなところも、仕草も、表情も、何一つ変わってはいないのに、記憶だけ、記憶だけ、ない。

「キリオ」「はい」「キリオ」「はい」「キリオ」「はい」「キリオ」「はい」


「キリオ、愛してる」



キリオが私を思い出すこと、それはもう、幻にしか似ていない。



100410 / titleby.afaik


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