風呂上がりに、机の上に置いてあった娘のプロフィールの紙になんとなく目を落とすと、おや?と思った。
苦手なもの、という欄に「虫」と書いてあったのだ。
昔から、きれいな蝶が好きで、夏休みには昆虫の観察日記をつけているような子だったのだが。趣味が変わったのだろうか。


「さとこ、お前虫嫌いだったのか?」


冷蔵庫の中身を漁っていた娘に声をかけると、彼女はぎくりと体を強張らせてから、勝手に見ないでよ、とこちらを睨みつけた。今度は私がそれにぎくりとしてしまう。そうか、もう自分のものを覗かれるのを嫌がる年頃なのか、思春期だもんなあ。
達筆なさとこにしては変に歪に書かれた「虫」の文字を見つめながら、いや、つい目に入っちゃったんだよ、と弁解するようにごにょごにょと呟くと、ため息を吐いてから「……別に嫌いじゃない」と居心地悪そうにさとこが言った。


「苦手なだけ」


冷蔵庫を閉めながら、ぶっきらぼうに呟く娘を見て、私は胸のあたりがざわざわするのを感じた。

娘が虫のことを言っているのではないような気がしたからだ。




仕事から帰ってくると、電話機がピーピー鳴っていた。
見に行くと、ファックスの紙が足りないから補充しろ、と警告メッセージを表示している。床にはファックスが大量散らばっていた。あまりにも印刷する量が多すぎて、重さに耐えられなかったのだろう。けれど紙を補充しようという気持ちは湧かなかった。紙が無くなったなら、それでいい。しばらくこのままでいい。どうせ送られてくるメッセージは同じだからだ。


「和幸君は本当に立派です」「誰にでもできることではありません」「同じ日本人として誇りに思います」


ぼうっとした表情で拾い集めた紙を読んでいると、「偽善者」と一言だけ書かれている紙があり、私はその紙を手に持ったまま、床に座り込んだ。

和幸、優秀で、スポーツができて、背も高いし格好いい、自慢の息子。

「お父さん?」

ガタ、と扉が開けられる音がして、私はびくりと身を震わせた。振り返ると、制服姿のさとこが立っていた。最初訝しげな表情だったさとこは、私の手の中にある紙に書かれた言葉を見て、分かりやすく表情を歪めた。

だから、
とさとこの唇が動く。言葉を発したのか、それとも唇だけがその形を作ったのか、それすらよく分からない。


「だからいやだったんだ。人のために死ぬなんてばかだ。お兄ちゃんはばかだ」


それだけ言ってさとこは踵を返すと、駆け足で二階の自室に戻った。ばたんと荒々しく扉が閉められる音を聞いて、私はもう一度手に持った紙を見た。偽善者。そうだな、他の連中には、どうとだって、言えるだろうよ。
私は部屋の隅に飾られた和幸の遺影に目を向ける。なあ、和幸、たくさんの人がお前を褒めるよ。見たこともない人たちが、お前に手向けて、涙さえ流す人だっている。火事の現場に飛び込んで、子供を助け出すなんて、なんて立派なんだろうと、皆が言う。けれど、それでお前が死んでしまっては元も子もないだろう。
お前は、聖人で、時の人で、でもこんな風に中傷する奴だっているんだ。悔しくないのか。なあ。

しばらくしてから立ち上がって、ふらふらと居間に向かう途中で、さとこの部屋から嗚咽が聞こえてきた。


「ばかだ。お兄ちゃんはおおばかだ。私はお兄ちゃんが誰かを助けて死んだって、全然うれしくないのに。見ず知らずの子供が、お兄ちゃんの命と引き換えに助かったって、全然うれしくないのに。お兄ちゃんが生きてなきゃ、なんにも意味ないのに」


まぬけやろう、と、泣きじゃくる声に、私は、その通りだ、とぼうっとする頭で思った。ばかだ、ばかだ、と兄を罵倒していることを、たしなめたほうがいいんだろうなあ、と理解しつつも、心は完全にさとこに同意してしまっているので、体が動かない。妹にぼろくそに言われている和幸は、世間では英雄扱いだ。けれどそれがなんだ。私も、さとこも、ずっと昔に死んでしまった妻だって、そんなことは喜ばない。お前はお前だけのために生きてくれればよかったのに。それだけで、よかったのに。


私はいつの間に泣いていたのか、霞む視界の中で、さとこが苦手なものとして最初に書いたのは、「兄」だったのではないだろうか、とぼんやり考えていた。






君は英雄



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