くすくすくすくすくすくすくすくすくすくす、

可笑しな笑い方だ。と、思う。瞼の向こうの人間は、そういった笑い方が好きなようだけれど。

光を失ったのは随分と昔の話だ。生まれた時からだったかもしれないし、まだ言葉も知らない間に目が見えなくなったのかもしれない。でもそれも、自分にはもう関係のない話だ、と長谷川はぼんやり思う。
周囲の人間達は、異常なほど長谷川に優しかったし、尽くしてくれた。かけてくれる言葉は、全て偽りではなかったし、彼等が同情などからではなく、本当の愛情から動いてくれていることを知っていた。最も、老いた人ばかりであったから、長谷川が15になる前には、既に皆死んでいた。長谷川は、その時、初めて涙を流したことを思い出した。肌寒い日のことだった。

暫くして、佐藤と名乗る人間と出会った。その時、長谷川は17で既にホームレス同然の暮らしをしていたのだが、そんな生活から引き上げてくれたのが佐藤だった。
佐藤は今までに聞いてきた人間のどれとも違う、まったく異質の声を発していて、中世的な、男なのか女なのか子供なのか老人なのか、判然としない声に、当初違和感を覚えた記憶がある。もうすっかりその違和感にも慣れてしまったけれど。
佐藤はある劇団を経営していて、全国各地を飛び回っていた。佐藤は必ず同じ車を使って移動していて、そして必ず長谷川を隣に座らせてくれた。それに意味があったかどうかは佐藤にしか分からないし、長谷川はそれを特別知りたいとも思わなかった。

佐藤は時々、長谷川に思いついたかのように唐突に、愛を囁いた。

「お前は俺のもんだよ」
「貴方は私のものよ」
「君は僕のものだよ」

時には男の声を真似て、時には女子供の声を真似て、ひそひそ話をするかのように、長谷川を、からかっているかのようにそれは囁かれた。長谷川は、それにうんともすんとも返事をしなかった。そんな長谷川の態度に、顔こそ見えはしないが、佐藤が満足そうな笑みを浮かべるのが空気を伝わって分かった。異常性癖の持ち主かもしれないな、と長谷川が少し思ったのを覚えている。
佐藤が異常だったかどうかは今となっては分からないが、まともではなかったということは確かだった。


そこまで思い出して長谷川は、ああ、自分は思ったより佐藤のことを知らなかったんだなあと思った。悲しいというよりも、それもそうかもしれない、という気持ちの方が強かった。佐藤は、長谷川に自分のことをあまり語らなかったから。

(ああ、でも、)


そういえば一度だけ、昔の話を佐藤がしていたなあ、と回想する。どういう話の流れでそういうことになったのかは一向に思い出せないが、何故だか肝心の話の内容だけは、きちんと最初から最後まで覚えていた。あの時の佐藤は男だった。


俺はさぁ、どっかの田舎の、すげー寒いところで生まれたんだよ。冬になると雪が降ってさぁ。あ、雪って知ってるかよ。冷たくて白いやつ。白がどういう色かは分からなくても、冷たいってのがどういうことかは分かるだろ?そういう冷たいやつが大量に降ってきて、朝起きたら家の屋根に大量にのっかってる。そういうところで俺は生まれたんだ。不思議だよなぁ。親父とお袋の名前と顔も思い出せねぇのに、そういうことだけは覚えてんだよ。あー、何ていうかな。あれだよ。誰かに一方的に植え付けられた興味のない知識とかは、時間が経てば忘れるだろ。でも、自転車って一回乗ると、それまですぐ転んでたのが嘘みてぇにスイスイ乗れるようになるだろ?多分、そういうことなんじゃねーかな。質問?何だよ。え?自転車が何か知らない?あー、大雑把に言うと、乗り物の一種だよ。とりあえずそれだけ覚えておけば不自由しねえから。え?もう一個?何だよ、面倒くせぇな。あ?親の名前がどうこうとかは、俺にとってどうでもいいことだったのかって?

……さぁな。そんなもん、


忘れたよ



その時、長谷川は佐藤を可哀想だと思った。昔から人に盲目だということで無責任に「可哀想」だと言われるのを一番に嫌っていたはずの自分が、こんな感情を覚えるなんて、と思いながらも、彼への同情を禁じえなかった。
舞台では立派に役になりきり、台詞を覚え、見ている者すべてを魅了する佐藤が、佐藤という人間、自分自身にはなりきれていないという事実に、長谷川は可哀想だと、そんなのは寂しいと思った。勿論彼がそれを、佐藤に伝えるわけがないのだけれど。


佐藤は唐突に、私はもうすぐ死ぬの、と女の声で長谷川に言った。長谷川は別に驚かなかったし、こんなにずっと傍に居たはずの人間なのに、不思議とその時は悲しくなかった。その代わりに、きっと佐藤が死んだ後、自分はどこかでひっそりと泣くに違いないと、彼は佐藤に手を握られながら、そんなことを考えていた。
暫く手をさすられていたかと思うと、突然、ガチンと前歯に佐藤のそれが当たって、ようやく彼がそれを接吻だと理解する頃には、佐藤の唇は離れていた。

「ねえ、僕が死ぬの、嫌じゃなぁい?」

子供の声で、佐藤が長谷川の耳元で囁いた。それは、そうだと肯定してもらいたがっている声にも、相変わらず長谷川をからかっている声にも、自分自身に問い掛けている声にも聞こえた。長谷川には、今、彼がどんな顔をして自分にそんな問いかけをしているのかが分からなかったのだけれど、そんなことはさしたる問題ではないと思った。そもそも自分と彼との間では、曖昧なことばかりなのである。
肩にかけられた佐藤の手が、震えていないことだけが、その時の長谷川と佐藤にとって、確かなものであった。

「お前は何と言って欲しい」

ぴく、と空気の震えるのが分かった。佐藤は、静かにもう一度長谷川に口付けると、お前はお前で居ればそれでいいよ、と青年の声で言った。長谷川はその通りにした。佐藤の望むままに、自分の嫌なことでもさせてやろうとは思わなかったし、彼もまた、長谷川に不愉快な要求をしたりはしなかった。

それから半年が経とうとしたある日、とうとう佐藤が死んだ。
葬式には、劇団の関係者から、政治家、或いは芸能分野で活躍している人間、マスコミなどが殺到した。会場は、泣き声で溢れていた。佐藤さん、と来た者皆が、そう泣いた。佐藤は皆から、時には人を欺き、傷付け、それでも平気な顔をしている連中からも、真の愛を注がれていた。長谷川は、別室で、静かに泣いた。会場に行けば、死んだ時、佐藤が何歳だったのかも、実際の佐藤の性別も分かるかもしれないと、ちらと考えたが、そんなことはどうでもいいと思った。もう、死んだ人間の話だ。死ぬ前に、お前は本当だったよ、とあの何のそれとも判別のつかない声で呟いた、佐藤の話。もう死んだ。くすくすくすくす、笑いながら死んだ、ある一つの生命の話。掴めない笑い方だったけれど、長谷川はそれを、嫌いではなかった。


長谷川は、それが悲しみからくるものなのか、虚無感からくるものなのか、判然としないまま、ただただ、涙を流して、畳を濡らした。



サイレント


さよなら、さよなら、さよなら、


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